よかろうモン!の名古屋研究生活日記

関東から名古屋にやってきた、平凡な大学教員の日記です。日々の出来事や思ったことを綴っていきます。

もちろん弱者は守りたい!そんなのアタリマエ!だけど...その②

さて、やっとこ前々回の記事の続きでやんす。みんなお待たせ!・・・って、別に待ってないカナ?

阪神・淡路大震災を生き延びた脳性まひの男性の主張に、オイラは違和感を覚えたということは前に書いた。彼は、自分が地震で生き埋めになった時に、ご近所さんが助けてくれたことを例に挙げ、災害時に弱者を助けるための準備(ご近所のネットワーク強化とかね)を普段からしておくべきということを言っている。それは正しいと思う。ただ、同時に彼は、東北・三陸の「津波てんでんこ」という言葉を「強者の論理」として批判していた。これがどうもオイラには受け入れられなかった。
ちなみにこの「津波てんでんこ」、オイラは昔から伝わっていた言葉だと思っていたんだけど、調べてみたら25年程前に造られた言葉だそうだ。意外と新しいのね。意味としては、「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わず、各自てんでんばらばらに高台へ逃げろ」「とにかく自分の命は自分で守れ」といったニュアンスらしい。このような標語が人口に膾炙しているのはつまり、過去に三陸津波に襲われた時、年老いた親や幼い子供を助けようとして、自身も命を失った人たちが多くいたということを示している。大きな津波に襲われるということは、人を助けようとすると、助けられる側のみならず助ける側まで犠牲になる恐れがあるという、極めて過酷で危険な状態なわけだ。
津波てんでんこ」の考え方に従うと、災害弱者(障碍者、子供、老人)である自分が助けてもらえないから、この考え方は「強者の論理」であり、間違っている。健常者でも生き延びられるかわからない過酷な状況においても、自分たち障碍者を助けに来い。それが彼の主張なわけだ。
日本は戦後の経済的な発展によって、それまで助けられなかった病気や障碍のある人々に手を差し伸べることができるようになった。これは社会の成熟に他ならない。国家が経済的に発展することが望ましいとすれば、それは社会に余力が生まれ、いろいろの事情で弱い立場にある人たちを助けることができるようになるからだ。しかしそれは平時のことだ。災害のような緊急時には、弱者でない人でも、自分の身を守るだけでせいいっぱいになるのは容易に想像がつく。そのような時でも、障碍のある自分が助けてもらえないから、「まず自分の命を守るために逃げろ」という考えを「強者の論理」として批判するのか?災害弱者である自分を助けるために、助かるかもしれない他人の命を危険にさらせというのか?それは障碍者のエゴではないのか?
病気や事故で体が不自由になる恐れは誰にでもあり、また人は必ず年をとるのだから、「いずれ誰もが弱者になる」と彼は言う。それはそうだが、オイラは老人になった時、災害に出くわしたとしたら、自分を助けようとした家族が結局犠牲になるなんてことは全く望まない。自分を見捨てても、家族には助かってほしい。他人に対しても、自分を助けるために身を危険に晒せとは要求できないと思う。
こんなこと書くと、「障碍者に対する差別だ!この差別主義者め!!ナチの信奉者め!!!地獄に堕ちろ!!!!」とか言われちゃうかもだけど、でも書いてちょっとスッキリした...。テヘ!